二度目の入院

一度目の入院先は、総合病院。
小児専門の国立病院もあるが、行くのは申し訳なかった。もっと重症で特殊な病気じゃないと。

次女は熱性痙攣をおこした。
10回以上何度も痙攣し、意識もなくなった。
救急車はためらわず国立病院へ。

次々にありとあらゆる検査。MRIや、髄液もとった。
脳髄炎が疑われ、治療は一刻を争うと、すぐに投薬が始まり、管だらけになった。
(翌日脳髄炎の疑いは晴れる。)

次の日次女はようやく目を覚ました。
顔をしかめ、また何をされるのかと懐疑的な顔をしていたが、
少しずつ表情は柔らいだ。
脳波が正常になるまで数ヶ月かかったが、
結局何事もなかった。
何もなかったことで、医者は残念そうにも見えた。

前回の入院は「必ず治る」と言い聞かせていたが、
今回の入院は、そう思うことに葛藤した。
同室の子達はみな重症だったのだ。
植物状態というのか、脳死というのか、全身麻痺で、様々な管につながられて生きている子供達。
テレビなどでも見たことはあったが、
テレビにも出られない子達がたくさんいた。

涙が出た。
ショックの涙か、心打たれた涙か。
みな一生懸命生きていた。
生きようとする力を感じた。
一生懸命動いていたのは機械だったのかもしれないが。

毎日誰かしらお見舞いに来たが、誰も何も話さなかった。
ただ寄り添っていた。
この善良そうな人達がいったい何をしたというのだろう。
この子達は失敗作なのか。
生きることとは何なのか…。

看護師達は10分おきくらいに来ては楽しく語りかける。
保育士、ボランティアの方々も次々に来ては歌を歌ったりマッサージをしたり。
至れり尽くせりだった。
全く無反応にも見えるが、
この子達はみなこの子達なりに必死で生きている。
そしてきっと毎日何らかの喜びがあるのだ。

幸福とは、いったいなんなのか。
今まで、幸福や不幸、優越感や劣等感は、何かしら誰かしらと比較をしていたように思う。
誰かより幸福だ、という比較はそこにはなかった。
それぞれの幸福の形がある。

例え自分の子に何らかの異常があっても、受け入れよう、と思った。
生きているだけで幸福なのだ、と思った。