ウソ

長女がウソをついた。
問い詰めると、そのウソを隠そうとまたウソをついた。
今日のウソは許した。
明日からのウソは許さない。
ウソをつくことの惨めさ。
ウソはウソで固められ、ウソの塊になっていくのだ。

全肯定派の夫は「成長の過程だ、大人になってきた証だ」と言う。
プラス思考にも程がある。
挙げ句の果てには、
ウソをついたことがないのか、と。

「ウソは正当化されるものじゃない」と言うにとどめる。
私自身、都合の悪いことは黙っていたかもしれないが、
ウソはついた覚えがなかった。

面白くないものは面白くない、
似合わないものは似合わない、
等々言う。
毒舌なのではない。
本当のことを言っているだけだ。
悪口を言っているのではない。
事実を言っているのだ。

なんとか救われてきたのは、
「人の気持ちになって考えるように」
「人のいいところも見るように」
という刷り込み教育のお陰だ。
言い方を変え、手を替え品を替えウソを回避してきた。

美化されていいウソは、
オー・ヘンリーの「最後の一葉」だけだろう。