余地

ふたたびの姉ランチ。
前回、渡すものを全部忘れ、
また会うことになったが、雨で延期していた。
姉は雨だと外出しない。
昔からそうだ。一時的に傘に凝ったとき以外は。

そんな自由人の姉が、滅多に見ないテレビを見て、法廷映像をメールしてきた。
…妹やないの!
ニュースでよく見る、リクルートスーツ?を着た人たちが、生気のない顔でゾロゾロと法廷に入り、
無表情な顔で座っている、例のシーンだ。
妹は、数ヶ月前の結婚式での喜々とした顔から一変、凍てついた氷のよう。
最近連絡がなく心配していたが、
凶悪犯の弁護をしていた。

妹は刑事専門で、だいたいは殺人事件だ。
毎日裁判所と刑務所を往復する日々、
会話はアクリル板越し、
同情の余地も弁護の余地もない人たちを弁護すると言っていた。
余地のないところにどうやって余地を探すのだろう。
想像を絶する。

ヌクヌクと生ぬるい生活を送る姉たちにベラベラ喋られても困るのか、
仕事の話は一言もない。
守秘義務というやつか、
逆恨みなどもありえる、過酷な仕事だ。

私は犯罪について詳しいことはわからない。
殺人なんて言語道断、厳罰がふさわしい、死刑以上だ、と思ってきた。

余地はどこにあるのだろう。

生ぬるい日々の生活で、
小さな不幸におののき、
ふと、これは罪の構造に近いのではないかと思った。

ちょっとしたボタンの掛け違い、
わずかな心の隙間に、魔が差すのだとしたら、
犯罪というものは、もしかすると、
生ぬるい事実が偶然に必然に、重なりあい積もりに積もった結果ではないか、
とも思う。
そういった生ぬるさの中に、
余地というものがあるのかもしれない。
当然許しがたい余地なのだけれど。